建設業を生業としている私であるが
タコ(他雇) タコ部屋労働なる言葉は聞いてはるが遠い昔話としか感じていない
以前勤めた会社に開発〇に勤めていたOB 悪く言えば天下りの爺さんとの会話の中で
彼の父も土木事務所の所長をしていて 父の転勤に付き添い10歳ぐらいの時に
十勝川の茂岩事務所に赴任して来たと申していた
当時は 赤ふんどし(犯罪者) 青ふんどし(軽犯罪者)白ふんどし(請負契約労働者)
が現場作業に従事 赤ふんどしの犯罪者のほとんどは政治犯罪思想者だっただろうとも
青ふんどしは窃盗罪などの軽微な者 白ふんどしは全体の1割ほど 今で言う派遣ピンハネ労働者
脱走者には厳しい罰 だがケガをさせるような事はしない労働力を失うからである
聞いた話では 酒 焼酎を体にかける すると蚊がその香りに引き寄せられ刺すというものであった
また逃亡の恐れのある者は足カセが付いていたとも
『だが(明治27年)に囚人使役が廃止されており昭和の時代に囚人労働?には疑問もある』
そうして出来上がったのが十勝川統内新水路であると 完成後半には機械が導入された
開発〇の資料を見ると昭和6年にルートが決められ昭和35年あたりまで工事をしている
機械が導入されたのは戦後昭和20年以降 GHQの奴隷労働解放措置が行われるまで
タコ労働が主であったはず だが開発〇の資料では 機械を利用し 人力労働受刑者も活躍したと
なっている
彼は昭和20年終戦の年に航空隊訓練生になり 飛行機の搭乗飛行訓練をしたところで
戦地には行かず終戦となる だが訓練飛行中に仲間が襟裳山中に墜落した
もう彼もガンで他界している 現在生きていれば85歳ぐらいだろう
先にも記述したが
昭和20年 連合国最高司令官総司令部(GHQ)からの命令がきっかけで
ようやく重い腰を上げた当局によって、ひときわ悪質な建設業者や斡旋業者などが
次々に検挙され送検・起訴処分となってからは、タコ部屋等の記述は減ることになる
地元にいるが石碑はあり 多くの殉職者がいたことの記述はあるがいったい
どれくらいの数の者が死んでいるかはほとんど記録にはない
だが現在の人材派遣労の仕組みは当時と変わらず継続されている
派遣労働者も賢く赴任支度金のみを受け取り素早く現場から消える方法などは今も昔も
変わりはない
昨日も福島原発の排水タンク設置工事において外国人労働者を偽装雇用し4次下請けとして
作業に従事させ 個人請負で溶接作業させていた 外国人(ブラジル)は日本語も
話せない者だった
余談となるが もう一人爺さんが会社にいた 彼は戦地に赴任し 当時のスリランカで終戦を
迎えたのか スリランカで強制労働したのかは教えてくれてはいないが
シベリア抑留には参加していない
戦時中捕まえた捕虜には犬肉人肉を与えたと申していた
自分は人肉は食さなかたとも聞いている
彼は敗戦後 田舎のニッサン自動車の工場長を務めていることから見ても
軍隊でも役職であったことだろう(推測)
posted by ohashi123 at 21:50|
Comment(0)
|
日記
|